清水弥生堂は、「初代・幸太郎」が大正5年に肥料販売業として開業したことに始まります。その後、個人創業で菓子販売を開始し、「二代目・眞」と共に、戦後に事業を発展。「二代目・眞」は砂糖問屋を開業し、昭和38年に「株式会社清水弥生堂」を設立します。
その後、「三代目・幸平」は幅広い食材料の取り扱いを開始。現在の様な、飛騨の食のニーズに応える総合食品販売へと成長を遂げてきました。
卓越した行動力とリーダーシップで清水弥生堂の礎を築いた「初代・幸太郎」、父の意志を受け継ぎながら商売を広げてきた「二代目・眞」、時代の流れを読みながら常に新しいことに挑み続ける「三代目・幸平」の話、そして未来の清水弥生堂を背負って立つ「四代目・大地」の思いをここに綴りました。
ぜひご一読ください。
飛騨の農家の次男として生まれた幸太郎は、実家の農業を見て育ちながら「自分はもっと大規模な農業をやろう」と決意。まだ10代という若さでひとり、北の大地・北海道へ渡りました。
ところが当時の北海道は10代での入植が許されなかったため、希望を断たれた幸太郎はあえなく飛騨に戻ってきます。
だが若く勇ましい幸太郎の夢は、そこで尽きることはありません。今度は朝鮮に渡って一旗揚げようと旅立ちました。しかし朝鮮は、幸太郎の予想に反して、辺り一面枯れ山ばかりの淋しい土地だったのです。「これでは農業に適していない」と幸太郎は再びふるさとへ帰ってきたのでした。
当時の日本は農産国、飛騨も例外ではありません。先見の明がある幸太郎は、大正5年5月に肥料販売を行う「清水弥生堂商店」を設立しました。しかし、米相場が一度に半値まで暴落し、その為に倒産の危機に見舞われました。(その損害を返すのに35年もの歳月を要しました。)そこで幸太郎は、大正11年に肥料販売から菓子製造販売へと商売を切り替えたのです。
その時代のお菓子といえば、塩せんべいや麦せんべいが主流。幸太郎も塩せんべいや麦せんべいを作って販売しました。しかし菓子作りに関しては初めてのことだったので、苦労も並大抵ではありません。
やがて兵役を終えた息子の眞が帰郷。名古屋から流れて来た闇菓子が高山でとても売れていることを知り、「この波に乗り遅れてはいけない」と父の商売を手伝う決意をしたのです。