清水弥生堂100年物語

三代目 幸平

トレーにかけた父・眞の思い

昭和50年、清水弥生堂は冬頭町(現・問屋町)に問屋町営業所を開設。その頃から紙袋などの包装資材にも力を入れる様になり、トレーも扱う様になりました。

トレーの扱いは、幸平にとって格別の思い出があります。父・眞は早くからトレーに将来性を見い出し、まだ大学生だった幸平に「C社(大手トレーメーカー)に行って取引させてもらえる様にお願いして来なさい」と命じました。幸平は言われるままに会社の名刺を持ってC社へ出向きますが、相手が大学生だとわかり、工場長に門前払いをされたのです。

苦い思いをしましたが、トレーが一般に広く出回るようになって商売が広がるにつれ、あらためて幸平はトレーの可能性にかけた父の思いを実感しました。

トレーにかけた父・眞の思い

時代の流れに乗り、洋菓子材料販売へ

また、幸平は大学4年の時に、当時日本一の砂糖問屋であったF商店でアルバイトをしながら砂糖について勉強。卒業後は1年間名古屋で修業し、会社の拡張移転に合わせて高山へと戻りました。

その頃から砂糖以外にも、様々な商品を販売する様になりました。当時は、和菓子に代わりケーキやクッキーなどの洋菓子の時代となり、さらに昭和45年の観光キャンペーン「ディスカバージャパン」でお菓子のおみやげ需要が増えたこともあり、洋菓子材料市場が急速に成長。幸平も、マーガリンなどの洋菓子材料を扱う様になりました。

時代の流れに乗り、洋菓子材料販売へ
生クリームとの出会い

さらに幸平にとって新たな転機が訪れます。
その時代、高山で洋菓子といえばバタークリームが主流で、清水弥生堂でもバタークリームしか取り扱ってはいませんでした。

生クリームとの出会い

ところが、大切な取引先である洋菓子店が、東京からパティシエを招聘。パティシエは「N社(大手乳業メーカー)の生クリームを取り寄せて欲しい」と幸平に頼みます。
それまで同社の生クリームの存在も知らなかった幸平ですが、さっそく東京のN社本社へ出向き、取引を依頼しました。すると「高山ではまだ扱いが無いから、ぜひ販売して欲しい」と言われ、取引できることになったのです。
その後、高山の洋菓子店も徐々にN社の生クリームを使用する様になり、販路も拡大。今では清水弥生堂の主力商品のひとつとなっています。

食材全般へと商売拡大に苦心

「お菓子も大切だけど、ご飯のメインディッシュとなる料理の食材も扱ってみたい」。そう考えた幸平は、製菓製パン材料を手がけつつも料理関係の食材販売に向けて、新規の仕入れ先を求めて飛び回りました。
その頃から冷凍食品が市場に出回る様になり、幸平も冷凍食品の販売を始めました。
しかし当時は冷凍便の配送ルートがなく、幸平も発泡スチロールにドライアイスを入れて配送するなど、苦心を重ねました。時には商品が溶け、お客様から苦情を言われることもありました。しかしそんな苦境にもめげず、幸平は食材全般を販売できる様になろうと努力を重ねます。

時代の流れに乗り、洋菓子材料販売へ

一生懸命やれば、必ず道は開けるものです。
10年ほど後には冷凍の配送便ができ、清水弥生堂も肉や魚といった冷凍食品を多く販売できる様になりました。

取扱商品の拡大を目指す

お客様のニーズに応える為に幸平は、さらに多彩な食材を扱いたいと考え、酒類販売免許を取得。最初はリキュール類だけを扱える限定免許を、その後みりん限定免許を取得して、お菓子や料理の材料としての酒の販売に乗り出しました。
また米や塩の販売免許も取得。「お客様のニーズに何としてでも応えよう」という、商売に対する前向きな姿勢が幸平を動かし、取り扱う商品を増やしていったのです。
その頃、父・眞はまだ社長として砂糖や小麦粉の販売を主に行っていました。
「父が元気な内に、新しい商売を広げる」。幸太郎から眞へ、眞から幸平へと受け継がれる商売の手法。それが清水弥生堂を発展させて行ったのです。

やがて昭和63年、幸平は代表取締役社長に就任。清水弥生堂の三代目、若きリーダーが誕生しました。しかし平成の世に入り、問屋の合併や再編が続き、業界を取り巻く環境は厳しくなって来ました。

「これからは海外進出も視野に入れつつ、時代に対応しながら生き残ることが大切だ」。幸平はそう心に誓い、息子である四代目の大地にもその思いを託します。

「四代目 大地」へ
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